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その男Glass-Jaw-Hopperグラス・ジョー・ホッパー

ファーストコンタクト

小学校低学年の時に住んでいた団地のそばにあった母子寮ってとこの男の子と友達なった。

その子は母親とその母子寮ってアパートに住んでいた。


自分は韓国の子なんだと言う。

俺はまだ一年生で韓国って知らなかったが当時購読してした学研の学習って雑誌に大韓民国って紹介があったのを思い出し初めて韓国の存在を知った。
見慣れぬ初めて見る民族衣装に身を包んだ女の子が何故か立ってシーソーをしている不思議な写真だった。

つまり初めて外国人の子と友達が出来たのだ。

俺は喜び勇んでオカンに外人の友達が出来たよ~と言った。

毎週日曜日の朝のパンナム提供の「兼高かおる世界の旅」をうっとり見ているやや外国カブレ気味のオカンはどこの子?どこの子?と興味津々で聞いてきた。

俺が大韓民国の子だと答えた時のオカンのやや落胆した反応が今でも忘れられない。

何故?

俺はまったく理解出来なかった・・・・・

オカンにしてみれば外国人の友達と聞いてアメリカヨーロッパ人だと思ったらしい。

そんな明らかに嫌がっているオカンの反応に影響されて俺は何となくその子と遊ばなくなってしまった。
その子も特に俺に構ってこなくて自然解消されてしまったのだ。


その後中学高校と進んで仲間の中にあの時のオカンと同じような反応し積極的に人種に拘り排除しようとするやつが多いのには驚いた。

やはり俺にはまったく理解出来なかったのだ。
何人であろうが関係なかった・・・・・
そんな友達の焼肉屋の家に遊びに行って食べさせてもらったりした。
俺如きが立ち入れぬ複雑な問題が存在しているのであろう気配は感じたが俺は単純明快に友達が何人であろうが気が合えばいいだけであんまり深く考えていなかったのだ。
その姿勢はその後も変わらなかった。

上京し東京で芝居なんかをやりだした頃、劇団の中にはたくさんの韓国の人らがいた。
地方都市と違って人種のるつぼの東京では芝居やっている韓国の人らは誰もが堂々と胸を張って生きているように見えた。
むしろ小劇場演劇界においては韓国人である事を象徴し武器にしている気配さえ感じられた。
俺はそんな人らとよく遊んだし女の子ともデートした。
むしろ積極的に韓国の人らとつきあったわけではない・・・・・
俺は相変らず単純明快に友達が何人であろうが気が合えばいいだけであんまり深く考えないのだ。


その後結婚して新婚旅行でダイビングしに行ったサイパンでは観光の日本人らがホテルのレストランでばかり飯を食っているのが不思議で俺は新妻とどんどん現地の町の飯屋へ出向いた。
現地の人しかいない飯屋では入ってきた日本人観光客に向こうが驚いていた。
当時俺みたいにホテルから出てきて飯を食いにく日本人は稀だったようだ。
今では普通だけどテレビ番組の猿岩石のヒッチハイクの旅なんかが流行るまではそんな現地の飯屋なんかに行く人はいなかったのだ。
特に先進国以外での外食は治安衛生面で警告されていた時代である。
俺にしてみれば不味くて高いホテルの飯より安くて美味そうな現地の飯が食いたかっただけだ。

島の商店街では韓国人の店でこっちが日本人だと知ってプイッとされた。
買ったマルボロを放り出して投げてよこしたのだ。

「あんたは日本人を嫌っているが俺の方は好きだよ。」と俺は愛想もへったくれも無い同年代に見える韓国人の店主に日本語で言った。

島の韓国人の焼肉屋で日本人観光客の老夫婦が韓国人の店主にメニューの説明を聞いていた。
外国勤務の時にすっかりリトルコリアのユッケにハマってしまい、時間があれば電車乗ってまで食いに行っていたのだ。
脂っこい中華料理は三日連続はきついけどシンプルで洗練された韓国料理は毎日でも食べられた。
そのサイパンの焼肉屋の韓国人の店主は日本語が話せないらしく老夫婦とまどろっこしい会話が続いていた。
すると老夫婦は店の中を見渡してから流暢な韓国語を話し出したのだ。
つまり隠していたらしい・・・・・店内に客が俺とかみさんしかないのを確かめてから自分らが韓国人である事を示したのだ。
きっとその年齢から考えて長い間隠していたのかも知れない。
日本から同行したツアーの仲間にも隠していて二人きりで現地の焼肉屋に来て知られたくない仲間がいないのを確かめてから母国の韓国語を話し出したのだ。

何か妙に寂しい気持ちになってしまい、俺は焼肉と好物のユッケを突いていたっけ・・・・・・


海外勤務時の勤めていた免税店での俺の友人はジェームズ、シャオ、ミンなんて言う中国系の友人が多かった。
日本人スタッフはいつも日本人で固まって仕事明けも皆一緒に飯を食いに行ったり飲みに行ったりしていたが断るのとか理由を付けねばならず面倒臭かったのだ。
勿論付き合える時は付き合ってはいたけど、やはり日本人特有のいつも皆一緒に行動するのが当たり前ってのが馴染めなかった。
俺はほとんどオフの日はリトルチャイナでチャン・リン・スーと名乗り、たどたどしい英語しか話せないし中国広東語は話せないので寡黙な中国人として飯を食ったりビリヤードなんかを中国人の友人として遊んでいた。
深夜のシティは深夜遅くまで営業しているイタリア人街で酔っ払って凶暴モードのドイツ人の集団と帰るタイミングを逃して一緒に飲み歩いている日本人らしかいなかった。
なるほどこの民族は全体主義ファシズムが浸透しやすい民族のようである。
酔っぱらったドイツ人の集団に乗っていたワゴン車を追い掛けられバンバン叩かれた事もあったっけ・・・
皆でかいから怖かったなぁ〜ありゃ・・・・・
免税店スタッフには色んな人種がいて目に見えぬ壁があったが俺は相変らず気が合いそうだったら関係無く近付いた。
随分彼ら彼女らの似顔絵イラスト描いてやって喜ばれた。

そして俺が帰国する時の送別会にはその免税店始まって以来初めて日本人スタッフ以外白人黒人ポリネシアン系アジア系全ての人種が揃ったのだった。


難しい話はアホゆえわからない。
俺如きが立ち入れぬ複雑な問題が存在しているのであろう気配は感じるが俺は単純明快に友達が何人であろうが気が合えばいいだけだ。
その姿勢はその後も変わらないと思う。



でも今ではすっかりかみさんを韓流に取られているのがちょっと悔しい・・・・・



by glass-jaw-hopper | 2011-10-23 14:38 |

ガラスの顎のリスクでジャンプし続けるバッタ
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